自腹批評

テレビ番組制作者が自腹で鑑賞したエンタメ作品を批評

姉ちゃんの恋人

正直な感想を一言で言うと酷いドラマだったって感じかな。

 

確かに泣けるシーンもあったし、笑えるシーンもあった。でも、全体としては酷い出来なのに、ネットの声が絶賛ばかりというのは理解できない。

 

主人公の弟役のジャニーズや、恋人役の林遣都、女性上司と恋仲になる藤木直人といった世代の異なるイケメン俳優が好きな、10代から50代までの幅広い女性ファンが、自分の推しが出ているから批判しないだけ=推しが出ているから、それだけで満足しているという風にしか見えないんだよね。

 

でも、個人的には脚本を担当した岡田惠和がこれまで多くの傑作を世に送り出してきたので、岡田脚本を否定する=モノを見る目がない奴扱いされる恐れがあるので批判できないという部分が結構あるのではないかなと思っている。

 

かつての三谷幸喜がメガホンをとった映画がそういう扱いだった。映画というのはスクリーンで見ることが前提なのに、三谷映画はそういう演出にはなっておらず、単に舞台やテレビの演出をそのままやっているだけで、映画としての出来はかなりイマイチな作品が多かった。しかし、舞台やテレビで傑作を次々と生み出していたので、彼の映画を批判する=傑作が分からない=センスがないというレッテルを貼られる恐れがあり、表立って批判できない雰囲気があった。でも、「ギャラクシー街道」という誰が見てもクソな映画を発表してくれたおかげで、映画ファンの多くが堂々と三谷作品を批判できるようになった。

 

そして、現在、絶賛派とマンセー派が激しいバトルを繰り広げている人物といえば福田雄一だと思う。確かに彼が手がけた深夜ドラマは面白いと思う。でも、その演出をそのまま、映画にしては映画として成立しないんだよね。単なるコントを2時間見せられても苦痛だからね。テレビは映画より尺も短いし、間にCMが挟まるからコントの連続でもつまらないとは思わないが、映画ではメリハリが必要だからね。だから、映画マニアの多くは福田雄一がメガホンをとった映画を酷評するようになっていった。

 

しかし、映画館に熱心に通わない層=福田雄一の深夜ドラマや舞台のファンからすると、映画好きの批判は“マニアが偉そうなことを言っているが、逆にお前らが笑いのセンスを分からないだけ。元ネタに対する知識がないから笑えないだけ”という扱いになってしまっていた。

 

そして、そのマニア批判に最近では、一般層も加わるようになってしまった。映画「銀魂」シリーズやドラマ・映画の「今日から俺は!!」が一般層、特に若者や子どもに支持されてしまったおかげで、福田作品を批判する人間=老害というレッテルを貼られるようになってしまった。クソ映画の「新解釈・三國志」もそれなりにヒットしているようだし、一般層の福田ブランド認知は高まっているのだと思う。

 

そんな、三谷作品や福田作品同様に批判できない雰囲気が岡田脚本にもあるのではないかと思う。明らかにクソとしか言えない、映画「世界から猫が消えたなら」なんていう作品もあるのにね。

 

本題に戻るが、本作の酷さはいくらでもあげることができる。

 

ホームセンター(ほとんど、ショッピングモールにしか見えないが)の売り場スタッフどころか、配送スタッフまで正社員ってどういうこと?普通、店員も配送もバイトや外部では?全然、リアリティがない。しかも、配送スタッフまでイベントの企画会議に参加するって意味不明!岡田のWikiを見ると企画会社勤務経験ありと書いてあるけれど、本当にきちんと仕事していたのか疑問に思ってしまう。そもそも、主人公の恋人の配送の時間帯が夜勤オンリーっておかしいでしょ。遠方に配送しているようには見えないしね…。どんなシフトなんだ?

 

主人公の恋人が過去を引きずっているというが、その過去というのが、レイプされそうになった彼女を守るため暴漢を攻撃(=正当防衛)したが、彼女がレイプされそうになったという事実を話したくないから、自分の彼氏を暴力沙汰を起こした酔っ払い扱いにして、犯罪者として警察に突き出した。そして、彼も自分を犯罪者と認めることにしたって話なんだから、なんだそれ?いい加減にしろ!って思ったね。しかも、その後再会した元カノを何も責めることなく許している上に、幸せになって欲しいとか言っているんだから、偽善もいい加減にしろって感じ!普通のドラマなら、自分を陥れた人物には何らかの罰を与えると思うんだけれどね。まぁ、不祥事だらけの自民党ではなく、自民党を追求する野党やマスコミが悪者になる世の中だから、自分を陥れた人間を責める行為は今の日本では受け入れられないのかな?

 

そして、何よりも酷いのは中途半端に取り入れられた新型コロナウイルスの描写。まぁ、コロナ禍が去ったと思われるパラレル・ワールド的な世の中を舞台にしたのは、ジャニーズを含むイケメン俳優や主演の有村架純を含む可愛い系の女優陣の顔をマスクでつぶしたくないって理由なんだろうが、だったら、中途半端にコロナ的描写を入れずに、今まで通りの世界の話として描けば良かったんだよね。しかも、第1話の時点ではコロナという言葉を全く使っておらず、ただ、世間がマスク生活・自粛生活をしていたって描写だったのに、突然、中盤ではコロナって言葉が出てきたのも意味不明。コロナって言葉を出すんだったら、登場人物が完全にビフォア・コロナ時代と同じ生活をしている本作は成立しないでしょ。もう少し、日々のエピソードでも感染症対策に気をつけている描写を入れるとか、あるいは、完全にコロナが去ってしまった世界として描くかとかしないとダメでしょ!本当、中途半端なんだよね!

 

それから、コンプライアンス意識をもう少し持てよと言いたい。主人公の弟3人を年齢で大中小と呼ぶとか、職場の同僚の名前が“ウスイ”だからって、存在が薄い扱いしていじるとか、本当、いまだに昭和の世界から抜け出せないパワハラ、セクハラ三昧のオッサン、オバサンの発想なんだよね。

 

そして、主人公の恋人の母親役の和久井映見の世話好きなちょっとウザいキャラってのは、岡田脚本の朝ドラ「ひよっこ」で彼女が演じた寮長(作中での正確な肩書きは舎監)と同じ。しかも、主演も「ひよっこ」の有村架純で、「ひよっこ」出演者の光石研やついいちろうも出ているから、本当、劣化版「ひよっこ」にしか見えないんだよね。

 

ひよっこ」ではウザい和久井映見も、何でもポジティブな有村架純も、ノスタルジックな話と合わせてハマっていたけれど、パラレル・ワールド的とはいえ、一応、現代が舞台の本作では浮いているようにしか見えないんだよね。

 

岡田という人は、「ひよっこ」とか、映画の「いちごの唄」みたいなノスタルジックなものは得意だけれど、本作のような現代的なものではダメってことなのか?でも、ノスタルジック要素のある「世界から猫が消えたなら」はクソだったよな。

 

そして、このクソ脚本のせいで、有村架純って、こんなダメ女優だったっけ?って思ってしまったんだよな…。今年の出演作品でいえば、春に放送されたWOWOWのメタドラマ「有村架純の撮休」は良かったんだけれどな…。やっぱり、脚本や演出がいけなんだろうな。

 

ところで、有村架純の親友役・奈緒の普段着のマイルドヤンキーみたいな格好はなんなんだ?まぁ、可愛いとは思うが。

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