自腹批評

テレビ番組制作者が自腹で鑑賞したエンタメ作品を批評

映画 えんとつ町のプペル(ネタバレあり)

吉本興業って、本来はエンタメ企業なんだから興行と表記すべきなのに興業としている時点で頭の悪い人たちなんだろうなと思ってしまうことがある。そうでなければ、元々、ヤクザに毛が生えたようなものだから自分たちが興行をやっているという認識はなくヤクザの隠れ蓑的企業がビジネスをおこす際によく使われる興業という言葉が使われているのではないかとも思ってしまう。

 

そんな吉本が製作のみならず、東宝と共同で配給も担当している本作は、吉本映画と言っていい作品だと思う。

 

でも、本作を見ていてふと疑問に思うことがあった。本作は独裁的な権力に対して批判精神を持つ父親に影響された少年の話だ。

 

吉本といえば、自民や維新に対するヨイショが酷く、癒着していると言ってもいいほどだ。ウーマン村本のような例外はいるけれど、基本はダウンタウン松本のように、老害ネトウヨっていう感じの思想の芸人が圧倒的多数だ。彼等の多くは出演番組の中であからさまな自民・維新マンセーをし、韓国や中国に対するヘイトを繰り広げている。

90年代にはカウンターカルチャー的存在だったダウンタウンネトウヨ老害になってしまった現状を見ると、時の流れって残酷だよねと実感する。まぁ、松本のネトウヨ化は北野武のようにお笑い出身の映画監督として成功できず、酷評されまくったのが原因だとは思うが。一般人でも、職場で存在感がなくなりリストラ候補になると、パワハラしまくる連中がいるが、そういう感じなのではないかと思う。

 

そして、本作の原作のキンコン西野はというと、その時によって思想がブレブレのようにも見える。なので、その時の気分によっては反権力をテーマにした作品を作ってもおかしくはないと思う。でも、吉本映画として大々的に予算を投じる作品で自民や維新を批判するような映画にするだろうかという疑問も沸いた。

 

本作で西野は原作以外に脚本、製作総指揮としてクレジットはされているが、監督は務めていないので、もしかしたら、監督やプロデューサーなどの意向が入っている部分もあるのかもしれない。

 

また、原作絵本が発表されてからアニメ映画が公開されるまでには4年の年月が経っているので、その間に西野の思想に多少の変化があった可能性もある。

 

だから、権力批判のスタンスに関しては注意しながら見ることにした。

 

そして、開始早々、違和感は増していった。差別撤廃を訴えているのに、主人公は異形の“ごみ人間”に対して、「くさい!」と身体的特徴からくる要因を理由に差別的発言を連呼している。

 

また、正義感の強い人物が妻に対して“嫁”という言葉を使っている点からも差別撤廃意識があるとは思えなかった。まぁ、芸人には自分の妻を“嫁”と呼ぶ人間が多く、一般人でもバラエティ番組ばかり見ている人の中には妻を“嫁”呼びしているのが多いから、その流れで深い意味はないのかもしれないが、差別撤廃を訴える作品なんだから、それはダメでしょって思う。

 

そして、この作品における政治思想が保守批判ではなく、リベラルや左翼批判だと認識することができたのは、独裁的な施政が行われている“えんとつ町”が出来た理由が明かされる場面だった。

 

貧富の差をなくすために、貨幣を使用期限のある腐るものにしようとした人たちが、それでは、都合が悪いと中央銀行に邪魔をされてしまったという過去がまず明かされる。

ここまでだと、経済格差をなくそうとせずに、一般市民は上級国民の奴隷になってればいいんだよという主張を繰り広げる保守政権に対する批判的メッセージを盛り込んだのかなとも思える。

要は、日銀の金融政策では国民の経済格差は拡大するばかり、貧困層をなくすためには、大企業や上級国民に金をためさせてはいけないんだ。給料を上げさせ、金を使わせろということだと思う。

 

ところが、これにはまだ続きがあった。そうした保守思想に邪魔された経験から改革派の人たちは外部と遮断した町を作り、煙がもくもくと立ち込めるえんとつを設置し、夜空が見えない町にして、保守思想の連中とは一切、接触できない町にしようとしたというのだ。それって、やっていることはほとんど、カンボジアクメール・ルージュだよね。つまり、本作の悪役は極端な思想を持った左翼、リベラルであることが明白になってしまった。

 

そうした背景から見れば、本作における言論の自由が奪われている描写というのは、ポリコレ思想の浸透で昔のように、人種や性別、宗教などに基づいた差別発言をできなくなってしまったことを、言論の自由が迫害されているとか、昔は良かったなどとほざいているネトウヨのボヤキの具現化に見えてくる。

 

また、外部を遮断している町というのも、明らかなデマに対して、マスコミは真実を伝えないとか、左翼やリベラルは捏造しているとか、自虐史観だとかなんだとか言っているネトウヨの主張を基にしたメタファーに見える。

 

さらに、理想のためには手段を選ばない(本作でいえばクメール・ルージュ的な独裁政治)やり方に対する批判というのも、理想と1ミリでも違えば、ネトウヨ扱いするパヨクの実像をdisっているようにも思える。

 

そういう、自民や維新をヨイショするために、絵本の映画化という形を借りて、この作品を見るであろう子どもたちに左翼思想は危険だよと洗脳するプロパガンダ映画だと分かってくると途中からもうさめた目でしか見ることができなくなってしまった。

もう、“ごみ人間”の正体が明かされても、どうでもいいと思えてくるほどだった。というか、予想通りだった。

 

ちなみに、私は自民・維新だけでなく、野党も含めた日本の政党全てが嫌いなので、パヨクではありません。また、こういうことを言ったことにより、パヨクはネトウヨ扱いするかもしれませんが、ネトウヨでもありません。

 

それにしても、この映画、どこかで見たようなシーンのオンパレードだったな…。

ハロウィーンのお祭りムードの中で始まり(独裁的な町でハロウィーンが許されているのも意味不明!仮装や覆面なんて、独裁政権が嫌いそうなものなのに)、ミュージカル的シーンとなるのは「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」。

炭鉱のトロッコのシーンは「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」。

外部と遮断された世界から抜け出そうとするのは「進撃の巨人」や「約束のネバーランド」。

亡き父の面影を追って、異形の者と冒険するのは「名探偵ピカチュウ 」(オチも同じか…)。

そして、80年代に批評家にMTV映画などと揶揄されたハリウッド映画なみに、歌で見せるシーンを次から次へとぶち込んでくるのは、「君の名は。」以降、東宝のアニメ映画が相次いでやっている手法で、最近では「天気の子」、「HELLO WORLD」、「ポケットモンスター ココ」でも取り入れられている。

本当、オリジナル性がないよね。

 

まぁ、本業でない人による声優演技は悪くはなかったと思う。「海獣の子供」でも主演を務めていた芦田先輩は安定感があったし、窪田正孝は朝ドラ「エール」の主人公をさらに弱くしたような感じだったが、演じたキャラには合っていたと思う。

そして、伊藤沙莉はぶっちゃけ、「映像研には手を出すな!」とまんま同じ声だったが、それでもきちんとガキ大将。つまり男児の声に聞こえたのには感心した。

 

ところで、本作鑑賞前に読んだネット記事では、上映終了後に拍手が巻き起こるらしいと書かれてあったが、本当だったのか…。別に舞台挨拶があるわけでも、初日初回でもないし、ましてやメイン館扱いの劇場でもないのに、極わずかとはいえ、拍手が起きるとはね…。クラウドファンディングに協力するような西野信者かな?

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