自腹批評

テレビ番組制作者が自腹で鑑賞したエンタメ作品を批評

トムとジェリー

トムとジェリー」を映画館で見るのは米国から2年遅れで1995年に日本公開された「トムとジェリーの大冒険」以来だ。吹替版のみの公開で主題歌は小林幸子の歌に差し替えられていたんだよな…。しかも、声優としても幸子が参加していた。

吹替版で映画を見るのが嫌いな自分がこの作品を見たのは、当時、気になっていた女子(職場の後輩)と出かけたいからという理由だった。というか、見る作品は何でも良かったんだよね。多分、キャラクターものだし、その時、映画館でやっていた作品の中で一番女子受けしやすいのはこれだろうって感じで選んだのだと思う。

でも、最初は彼女は自分と一緒に映画館に行くのは嫌がったんだよね。理由は多分、自分に下心(=付き合いたい等々)があるってのを察知していて、自分とはそういう関係になりたくないって思っていたってことなんだろうね。

 

“映画を見に行こう”と誘った時、彼女は“試写会なら一緒に行くけれど、映画館は行かない”と答えたんだよね。

多分、これって、風俗嬢の中に“お小遣いをくれれば本番はやらせてあげる。でも、キスはしないで”っていうポリシーを持った娘がいるのと同じだと思う。

プリティ・ウーマン」のヒロインは、作中では曖昧な描写になっているけれど、どう見ても、彼女の職業は売春婦だと思う。その彼女も劇中で似たようなことを言っていたしね。

一般的な感覚からすれば、キスよりセックスの方が本気度が高い、ハードルが高い行為に思えるけれど、そういうポリシーの女性たちからすれば、セックスは所詮、スポーツのようなものだから愛がなくてもできるが、キスはメンタルな行為なので、恋愛関係ではない人とはできないってことなんだろうね。

 

それと同じで、試写会は別に鑑賞料金を相手の男に出してもらったりすることも、割り勘で自分が払ったりするということもない。第三者である試写会の主催者が招待してくれるものだ。でも、映画館で見る場合は、そうではない。男に鑑賞料金を奢ってもらったら完全に相手に貸しを作ってしまうことになる。それが嫌なんだろうね。

 

彼女とは買い物とか飲食には2人だけで行ったこともあったので、映画館がダメというのは納得いかないなと思ったりもしたけれど、コレも“セックスはいいけれど、キスはダメ”と同じ理屈なんだろうね。ショッピングセンターや飲食店は他の客や店員も目の届く範囲にいるパプリックな場だけれど、映画館は暗闇になってしまえば、パプリックな要素は消えてしまうからね。試写会なら一般向けならイベントの一環だし、マスコミ向けなら仕事場のようなものだし、いずれにせよ主催者の管理下にあるから、そんなに暗闇感はないけれど、プライベートでの映画館での鑑賞ではそうではないからね。つまり、どうやってもデートになってしまう。それを避けたかったってことなのかな。

 

よく思い出してみると、買い物とか飲食に2人だけで行った際も、彼女は少額でも払おうとすることが多かったから、恋愛関係になりたくない人には極力、貸しを作らない主義なんだろうね。

 

結局、この日は9月1日だったので、“映画ファン感謝デーだから、安く見られる”とか言って、何とか映画館に行かせることには成功したんだけれどね。でも、この“映画館デート”をしたあたりから、彼女とそれまでちょくちょく行っていた買い物や飲食も減ってしまうようになったんだよな…。やっぱり、彼女としては試写会に行ったり、買い物に行ったり、飲食したりは仕事の流れでできても、映画館に行くことはプライベートな行為という思いが強く、接触を避けるようになったんだろうね。

 

ということで、話を本題に戻すが、その吹替版で見た「トムとジェリーの大冒険」以降に製作された「トムとジェリー」関連作品は一切見ていないので、実に四半世紀以上ぶりの「トムとジェリー」体験となった。

そして、ハリウッド・メジャーの実写の拡大系作品を見るのは今年初めてだ。まぁ、本作が実写映画かどうかは議論の余地があるとは思うが。

 

とりあえず、誰が見ても「トムとジェリー」と思えるベタな作品だった。多様性とかは多少、アップトゥデートされてはいるけれど、現在の基準で見るとちょっと緩いかなって気はする。でも、完全ポリコレ仕様にしてしまうと、「トムとジェリー」らしさがなくなってしまうから、この程度でいいのかなとは思うかな。やっぱり、バイオレントな部分も含めての「トムとジェリー」だからね。

まぁ、アジア人キャラだから名前がジャッキーっていうのも安直すぎるとは思うけれどね。でも、このジャッキーを演じているケン・チョンって、こういうブチ切れ演技やらせらた天下一品だよね!

とりあえず、メインキャラだろうとなんだろうと、多かれ少なかれ悪事を働いた人間には罰を与えるし、その一方で救いも与える。そして、被害者も救済するというのは現代的かなという気もする。

 

何となく90年代っぽいテイストになっているのは、そういうポリコレ対策なのかな?実写とアニメの融合という映画の作り自体も90年代のワーナー映画「スペース・ジャム」を想起させるし、ア・ドライブ・コールド・クエストなど90年代音楽の使用も多いしね。はっきりと2020年代のテイストで作ると、ポリコレ的にはアウトだから、90年代っぽい雰囲気にしたんだろうねとは思った。

 

それから、90年代音楽ではないが、エンディング曲担当がアンダーソン・パークというのは、作品の舞台がセントラル・パーク周辺となっていることをかけたダジャレ的なものなのかな?

 

あと、色んなパロディも入っていたが、ジェリーが猫でないトムのようにミッション・インポなことをするシーンには笑ってしまった。

 

今回、自分は字幕版で見たけれど、木村昴が吹替版でやっている役って、犬のスパイクじゃなかったのか。スパイクはいかにもジャイアンな性格だし、原語の話し方もジャイアンっぽい口調だったから、てっきり、木村昴が吹替版で担当しているのはスパイクかと思った。

 

それにしても、クロエは可愛いな!

 

ところで、本作の予告編などのナレーションで、「トムとジェリー」を「トムジェリ」と略しているけれど、アレって略す意味あんのかなって思う。

ファンの中には昔からそういう呼び方をしていたって主張する人がいるけれど、「と」と「ー」しか省略していないからね。「トム」なんか一文字も省略されていない。

それに、「ー」なんて、ほとんど文字ではないから、実質カットしたのは「と」だけ。

小さいァィゥェォは実質、前の文字と合わせて一文字扱いとすると、「トムジェリ」は読みで4文字扱いになる。最近は、何でもかんでも読みの4文字で略称を作り、その呼称で呼ばせて、流行っている感を出すのが多いが、その流れなのかな?

 

でも、「花束みたいな恋をした」を「はなこい」と呼ぶのはいいんだけれど、その文字表記がタイトル表記に準じた「花恋」ではなく「はな恋」なのは納得いかないよな…。まぁ、漢字2文字だと音読みされてしまう可能性も高いからなんだろうけれど。

それから、「冴えない彼女の育てかた」は「彼女」と書いて「ヒロイン」と読ませるのに、略称は「冴えヒロ」でなく「彼女」を「カノジョ」と読ませた「冴えカノ」になっているのも納得いかないな…。

どうでもいいんだけれどね。

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