自腹批評

テレビ番組制作者が自腹で鑑賞したエンタメ作品を批評

エール

本作は働き方改革の流れを受けて週5回放送に短縮された(正確には戻ったかな)最初の朝ドラとなった。そして、制作中にコロナ禍に突入したため、放送を中断し、その期間は再放送になってしまった。そのため、復帰後の放送回数も削減された。さらには放送開始前には脚本家の交代劇というトラブルも発生している。そして、出番はもともと多くはなかったとは思うが、それでも重要キャラクターの1人であることには違いない大作曲家役の志村けんがコロナにより他界した。

こういう数々の事例を並べてみると、デフ・レパードも真っ青になるくらい、次から次へと不運が訪れていて、脚本や演出に何度も変更が出たであろうことは容易に想像ができる。

でも、そういうのを除いたとしても、この「エール」は駄作だと言わざるをえない。

 

ネットの声はやたらと絶賛だらけだが、それは作品そのものではなく、出演しているミュージカル俳優や、ミュージシャン、歌手業も行っている役者、ナレーションを担当する声優、そして、志村けんのファンがマンセーしているだけで、純粋にドラマとして見たら、これほど酷い作品はないと思う。「半分、青い。」や「なつぞら」の方がまだマシだった。

 

ところで、朝ドラに関してネットでつぶやく時に、ハッシュタグの後にタイトルだけを付ける場合は、批判コメントをしてはいけないとか、批判したい場合はハッシュタグの後にタイトル+反省会と付けるか、作品名を文字った名称(本作なら“萎えーる”)にしなきゃいけないみたいなアホなルールって、本当、自分と1ミリでも意見の異なる人間は敵扱いする今のネトウヨ思想もしくはパヨク思想が蔓延する日本って感じで、バカじゃないのかとしか思えない。

 

話は戻るが、「エール」の一番ダメなところは、架空の人物が実在の作品を作ったことにしてしまったこと。

朝ドラでは、実在の人物をモデルにしながらも、人物名やその人物が世に送り出したものの名称、その人物が関わった企業名などは架空のものにするのが定番となっている。

例外はあるが、せいぜい明治時代までが中心の大河ドラマに対して、朝ドラは大正以降の話が多く、モデルとなった人物の子や孫が存命の場合も多いし、朝の生ワイド番組の合間に放送している朝ドラで実名を出すのは宣伝につながってしまうという配慮もあるのかもしれない。だから、その是非はここでは問わない。

そのルールに従って、たとえば、「なつぞら」では、モデルとなったアニメーターや監督の名前は別の名前になっていたし、彼等が世に送り出したアニメ作品も実在の作品をパロったような別作品になっていた。

 

ところが、「エール」では、作曲家・古関裕而をモデルにした古山裕一を主人公にしたと言っておきながら、作中では、古関が作曲した作品がそのまま、古山の作品として出てきてしまった。古山だけではなく、仲間の作曲家や作詞家、歌手などが関わった楽曲や映画なども現実のもののタイトルや内容がそのまま使われ、架空の人物の作品として紹介されてしまっている。

百歩譲って、人物名は架空、作品名は現実みたいなパラレル・ワールドで全てが展開するならまだしも、原節子とかストラビンスキーなど実名で登場する芸能人・作曲家などもいる。

どうやら、ドラマに役として登場する音楽家や芸能人は架空の名前、役として登場しない人物は現実の名前としているようだが、そんなのは制作側の勝手な理由付けでしかない。統一すべきだと思う。

 

そして、コロナ禍に入り、現場に入ることができる人数の制限などが発生したことにより、ストーリー展開に変更を余儀なくされたという面もあるのだろうが、番組スタート時の印象では東京五輪開会式がクライマックスもしくは最終回になるものと思われたのに、そうではなかったのも意味不明。まぁ、これに関してはコロナの影響で2020年の東京五輪が延期になってしまったことも影響あるとは思うが。

しかし、それを差し引いても、五輪開会式当日の話は早送りにしてしまい、結局、何が言いたいのか分からぬまま終わってしまったのは謎だ。

また、ほとんどのキャラクターのその後もきちんと描かれず終わってしまった。五郎の野球具製造は成功したのか?梅は作家として成功できたのか?大将やプリンスの老後ですらどうなったのかよく分からない。ほとんど投げっぱなしなんだよね。

 

そして、裕一の妻、音の位置付けも意味不明。

少なくとも、番組スタート時の、五輪開会式直前の様子を見ると、大作曲家になった夫とともに音楽界に足跡を残した人物のような印象を受けたが、結局、自分の才能を見限って脱落したという描かれ方だった。

だったら、番組開始早々、主人公の存在を無視して1週間丸々、音の子ども時代を描いたのは何だったの?

朝ドラに多いヒロインが主人公であるというものでもなければ、男の主人公とそれを支えるヒロインという構図でもない。また、「まんぷく」のように従来のヒロインが主人公のものかと思ったら、実際は夫の方が主役だったというタイプでもない。なので、主人公とヒロインのW主演という作品なのかなと思ったが、結局、娘を出産してからは、添え物ヒロインにすらなっていなかった。何が言いたかったのだろうか?

 

それから、第1話の原始時代エピソードもそうだけれど、コント風の演出が多すぎる。特に中断から再開した後のコント描写は酷すぎる!演者のファンがネット上でマンセーしていて、好評なイメージが植え付けられているが、ドラマや映画、音楽などが好きな者なら、とてもではないが褒められたものではない。というか、正直言って寒すぎる!

 

しかも、最終回を「エールコンサート」と題して放送するのも理解不能。登場人物が歌うという設定で進行しているのだから、古関メロディを歌うと紹介するのはおかしいでしょ!あくまでキャラクターとして歌っているのなら、古山作品を歌うという形にしないと整合性が取れない!

しかも、作中では一切触れなかった「モスラの歌」を歌唱するのも意味不明。とりあえず、演者のファンや特撮ファンが騒いでくれれば成功としか思っていないのでは?

こういうことをやるなら、「うたコン」あたりで、演者があくまでと俳優として出演し、撮影中のエピソードを語りながら、名場面とともに歌うという形にした方が良かったと思う。

さらに、酷いのが、最終回の1つ前の回、ストーリー的には事実上の最終回となったエピソード。

ラストでいきなり、古山夫妻役の2人が現実の窪田正孝二階堂ふみに戻り、感想を言って、「明日の特別コンサートをお楽しみにね」と言うのは、中途半端もいいところ。やっぱり、ドラマはドラマ、お知らせはお知らせであるべき。“つづく”という文字が出た後の視聴者投稿コーナーで演者の作品が出てくるというのはアリだと思う(今回は何故かなかったが)。だから、その投稿コーナー部分で多少、いつもより尺は長くても演者の2人が現実の窪田と二階堂に戻って、明日の告知をするというのはアリだと思う。要は民放連ドラの次回予告と合わせて流れる視聴者プレゼントとか、配信サイト誘導の告知と同じ扱いだからね。

でも、「エールコンサート」はあくまでもキャラクターとして歌っているものなんだから、前日の予告で演者が現実に戻ってはいけないんだよ。メタ構造の意味を理解していないとしか思えないな。

 

それから、本放送終了後ではなく、本放送中にスピンオフのエピソードが流れるというのは、朝ドラの前作「スカーレット」でもあったが、今回はコロナの影響による中断前に2週間もあったうえに、最終回もコンサート形式となっていて、それだけ脱線するなら、中途半端な描き方で終わった本線の話をきちんとやれよと思ったりもした。

まぁ、冒頭に記したような諸事情があったのだろうが、それでも酷い。あと、中途半端といえば、GReeeeNの主題歌が流れなかった回が何度もあったのも、何だかなという感じかな。まぁ、深夜アニメでは、第1話とか最終回で主題歌が流れないというのはよくあるから、そういうテイストを狙っているんだろうが、朝ドラの正式名称が「連続テレビ小説」となっている理由を理解していない証拠だろうね。

最近の朝ドラはアバン部分があることが多くなったけれど、本来は時間とともにテーマ曲・主題歌を流し、時計がわりにしてもらい、出勤・登校時間を再確認するという意味合いもあったんだよね。NHKの視聴率主義の弊害かな。

 

と、文句ばっかり言ってみたが、朝ドラならではの楽しみとも言える新鋭役者の発見や、これまで過小評価されていた役者の評価の場はきちんとあったかなとは思う。

ニューカマー系でいえば、華役の古川琴音は、「ひよっこ」の伊藤沙莉や「まんぷく」の岸井ゆきののように朝ドラをきっかけに活躍の場が増えていく女優になりそうだし、吟役の松井玲奈は元々、演技力はあったと思うが、作品に恵まれていない部分もあったので本作で再評価されたと思う。梅役の森七菜は本当、出る作品ごとに違う人間に見えるが、本作でもそうした印象は持つことができた。「エール」で一番良かったのは、梅と五郎の恋愛絡みのエピソードだと思えるのは、彼女の演技力のおかげだと思う。

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